昭和45年8月14日 夜

ありがたいと思うことにお礼を申し上げることです。


 前に、家内が、今日は、明日の朝あたり、台風が来るらしい。今日はこのようにおしめりを頂いて、えー、風さえ、吹かにゃこれはほんなこしまいですと(笑)、確かにそうですけれども、信心というのはもう、あのう、その時有り難いと思うことをお礼申し上げたらいいと思うんですね。おしめりがあっておる、何とも言えんおしめり。もう乾きに乾いておってこのおしめりを頂きよるんだから、おしめり、おしめりのことを、私は本当にお礼を申しあげる。できたら、おかげになると思うですね。
 まあだからその、そこんところが、あー、そのことをお礼を申し上げられない。今、あの、熊谷さんがお届けされましたのが、今日は、期せずして子供達から着物を送ってきたり、帯を送ってきたり、まあいたしましたと。もう本当にそれぞれに娘さん達息子さん達、もう本当、これ以上のおかげはなかろうというように、おかげだけは頂いておられます。 けれどもまあ、私にとっては着物も有り難い、帯も有り難いけれども、まあ子供達がもう私の信心を、その、まあ継承して受けていってくれないと、まあいうことが、あれは悩みだとこう、ね、どういうことだろうかと、やはり、願い続けておられるその願いが切実であればあるほどそれはやっぱり思われるんですね。
 私はこんな帯じゃない、こんな着物じゃない、本当に神様にと言うてくれることの方が、と言うて、んなら、まあ皆さんが、そのことを反対されるわけじゃないけれども、あまりお母さんが熱心だから、そうもまあ朝参り、夜参りせんでもというようなものがいつもあるわけです。私もそれはどういうことか分からない。分からないけれども、やはり、その今の雨のことじゃないけれども、まあおかげを頂いて信心もできませんのに、なら子供達がおかげを受けておるということは事実なのですから、そのことはしっかりやはりお礼を申し上げときゃあ、いいのじゃないだろうかとこう思います。
 そのままでおったら、あの、御神眼にね、「袖」という字を頂いた。袖という字は、ね、「ネ」を書いて、「由」(よし)という字を書いておりましょう。ね、例えば、あのう、ふられるということ、言わば、この、「袖にする」と申します。言うならば、お母さんがあんまり熱烈だから、もう本当に家のお母さん言うことはなかばってんか、あー、お参りば半分ぐらいしなさるとかね、良かろうち思うとばってんというように、子供達からむしろ、嫌われなされるところが、まああるのだとこういうことです。袖にされておられる。
 けれども、さあ熊谷さん、ここばもう一押しと言うてから、神様はその「由」という字の下に、っとこう、ちょっとこうひいて下さったらどげんなりますですか。「ネ」を書いて「由」、あと、ちょっと引いたら「神」という字になるでしょうが。私は本当にもうこれ、いつものことながらね、神様のその知恵、というかご教導にはもう恐れ入ってしまいます。
 今朝あたりのあの、ね、「金光教」という、あの、「金」を「おかげ」、「光」を「徳」と、「教」をまあ「教え」というふうにして、昨日の御理解を頂きましたもんですけれども、本当にもうどんなに分からんもんの、はあっと、例えば思わにゃおられない。ね。
 ですから、結局、子供達が信心もできませんのに、あのようにおかげを頂いておりますということをお礼申し上げて、また、一段とね、それでは信心がのうては、私本当の幸せとは思われませんから、どうぞ、そこのところの願い、言うならばおしめりがあっておる、そのおしめりのあってること、そのことをね、お礼を心から申しあげたらいいんだということ。ね。
 そして、また、んなら、今夜、ってから明日方から吹こうという、それも、まあ、天地が自由になるほどしの神様のことですから、ね、例えば、上の方を吹かして下さるとか、また横にそれさして下さるとかという、願いが列挙して、やはりおしめりそのものは、お礼を申し上げなければならないのであり、子供達はもうそれこそ、何不自由ないほどしに、それがそれぞれ皆が、おかげを受けておるということをです、こんなに有り難いことはないとして、お礼を申し上げて、もう一押しのね、その、迫力のある信心をさして頂くところから、「袖」という字は「神」の字になって、信心なってくるという、お知らせであったと思いますがね。
 本当に、教祖様はもうとにかく、おしめりそのものを有り難いと思うたら、有り難いと思うた。ほんに、おしめりだけなら有り難かばってん、風が、ね、そのおしめりまでがあり難くなくなってきたら、もうなーにも有り難いものはなくなってきてくる。信心のコツはそのね、お礼を申しあげるところはしっかりお礼を申し上げて、ね、おかげを頂いていかなきゃならん。
 例えば体が、どこが悪いと言うてもです、ね、言うなら、んなら、その、他のどこらへんの(末尾切れ)